萩光塩学院設立の歩み

⑴修善講~萩女子学園~萩光塩女子学院
 明治23年、萩市西田町本願寺別院内に修善講女学校が設立された。明治29年、経費の都合上休校となったが、明治36年萩婦人会(初代会長は毛利安子)は瓦町新堀の好生館を仮校舎として再興し、私立萩婦人会修善女学校と改称した。その教育方針は「女子に必須なる知識能力を授け、徳性を涵養し、その品格を高め、人格ある家庭の主婦たらしむ」ことであった。大正2年、江向河添沖田に校舎を新築し移転した。
 昭和23年、学制改革により、新制高等学校「萩女子学園」として再出発したものの、新制中学、高校の新設により入学者は減少し、再び経営は困難に陥った。このことを伝え聞いた萩カトリック教会主任ヴィエラ神父の紹介により、学校の資産、職員、生徒の一切を引き継いで、ベリス・メルセス宣教修道女会が経営することとなった。昭和26年10月3日、学校法人萩女子学園と学校法人光塩女子学園の吸収合併式を経て、昭和27年度より萩光塩女子学院は開校した。

⑵明治維新胎動の地で
 萩光塩学院の敷地内には、今も修道院として使用されている古い邸宅がある。かつて毛利家別邸であった建物である。
萩婦人会の会長を務めた毛利安子 (1843-1925)は、かつての長州藩世子毛利元徳夫人である。先に記述されるとおり、毛利安子は萩婦人会修善女学校開設時に大きく貢献された。NHK大河ドラマ『花燃ゆ』で有名になった吉田松陰の妹である楫取美和子は、毛利安子の嫡男(毛利元昭)の世話役を務めた人物であるが、その兄、杉民治(1828-1910)は修善女学校の校長を務めた。このように、萩光塩学院は、明治維新の地でその使命を受け、明治・大正・昭和の激動の中、萩市の女子教育を牽引してきたのである。

⑶光塩の創立者マドレ・マルガリタ(1884~1934)
  光塩の母体であるメルセス会は、1218年、聖ペトロ・ノラスコにより、スペインで創立された修道会である。1540年、北スペインの寒村ベリスにメルセス修道院が建てられた。その後300年にわたり、この修道院は観想修道院として祈りのうちに神に献身する修道女たちが生活した。
1924年、この修道院の一修道女マドレ・マルガリタは、観想修道院を宣教修道会に改変した。その二年後の1926年9月19日最初の宣教女たちが中国に向かって出発した。1928年、南洋視察旅行の途中、マドレ・マルガリタは日本に立ち寄った。東京における学校建設に可能性を調べるためであった。当時の東京大司教シャンボンの熱心な勧めと協力を得、困難にもめげず、学校建設はおしすすめられた。1931年、東京杉並区に光塩高等女学校という名で光塩は誕生した。マドレ・マルガリタはこう述べている。「私の最大の夢は、日本にカトリック学校の連鎖をつくり、社会に有益な女性を育てることです」

⑷円型校舎の建設
  毛利家から譲り受けた別邸校地内に鉄筋コンクリート3階(一部4階)の円型校舎が完成し、その落成式を迎えたのは昭和30年10月のことだった。それまでの江向校舎の建物は古く、立て直しは皆の悲願であった。新校舎着手までのシスターたちの努力は並大抵のものではなかった。シスターたちは、先生、生徒たちに呼びかけバザーを行った。「セメント一袋を」とのモットーのもとに、バザーの収益は建設資金にあてられ、スペインの姉妹校の援助をも請うた。皆が一丸となって完成した校舎は、日本でも珍しい円型校舎であった。

  沿革
   1800(明治23年) 修善講設置(萩町本願寺別院) 校長 中村雪樹
   1896(明治29年)  休校
   1903(明治36年)  萩婦人会によって萩婦人会修善女学校 設立
   1948(昭和23年)  学校教育法第4条により高等学校設置認可を得、萩女子学園と改称
   1952(昭和27年)  学校法人光塩女子学園と学校法人萩女子学園とが合併
   1955(昭和30年)  東田町15番地毛利氏別邸校地内に円型校舎落成
   1959(昭和34年)  初等部校舎新築
   1963(昭和38年)  江向校地に園舎新築
   1966(昭和41年)  体育館・寄宿舎新築
   1968(昭和43年)  東田町園舎新築・テニスコート新設
   1981(昭和56年)  江向校地に幼稚園新園舎落成、2号館校舎落成
   1988(昭和63年)  小学校校舎解体、新築(現3号館)
   1990(平成2年)   東田町園舎、江向園舎と合併